善と徳のすり替え構造

哲学

――「良い人」の定義の罠と、同調圧力の正体


序章:「良い人」とは誰のための“良さ”か

あなたは「良い人でいなさい」と言われたことがあるだろうか?
多くの人は、それを「人に迷惑をかけず、空気を読み、反抗しないこと」と理解している。
しかしそれは本当に「善」なのか? それとも“都合のいい人間”を作るための定義なのか?


善と徳の違い──本質を見失わせる仕組み

  • とは、道徳的・倫理的に「良い」とされる行為
  • とは、内面的に備わった人格・品格・知恵の総体

現代社会は「善」のふりをした「徳なき行為」に満ちている。
たとえば:

  • 自分の利益のために募金する
  • 目上の人にだけ礼儀正しく振る舞う
  • 外面だけ丁寧にして内心は傲慢である

これらは“演出された善”であり、真の徳とはかけ離れている


「良い人」は誰の定義か?

  • 会社に逆らわない
  • 学校で目立たない
  • 親の期待通りに生きる

これらはすべて、「組織や集団にとって都合の良い存在」でしかない。
社会は「従順さ」と「無害さ」を“善”として評価するが、
そこに自己決定も、信念も、哲学も存在しない


同調圧力という“美徳の暴力”

日本社会では、「和を乱さないこと」が美徳とされている。
しかしこれは、思考の多様性を押し殺すための圧力でもある。

  • 空気を読め
  • 皆と同じであれ
  • 浮くな、出るな、黙れ

こうした言葉は、「善い人間」であることを盾にして、
他者を黙らせる装置として機能する。


真の徳とは何か?

真の徳は、以下のような要素から成る。

  • 正しさではなく本質を見抜く知性
  • 他者に迎合せずとも誠実であり続ける強さ
  • 時には“反逆”することで守る本当の倫理
  • 自分の意思で行動し続ける勇気

つまり、善行とは“内なる徳”が自然と表出したものであって、
評価されるための「ふり」ではない。


結び:評価されるために善を演じるな

社会にとっての「良い人」になることは簡単だ。
しかし、それは自分の魂に背く人生でもある。

本当の善とは、誰に評価されなくても、
誰にも認められなくても、
信念と知性に裏打ちされた行動である。

次回は、さらにこの“支配の定義づけ”がどうやって国家レベルで機能しているのかを掘り下げていく。

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