――国家という概念が支配のツールである理由
序章:「国」とは本当に存在するのか?
「あなたの国はどこですか?」
この問いに私たちは迷わず答えるが、それは“本当に存在する何か”だろうか?
地図に線を引かれ、旗が掲げられ、国家という言葉が語られる。
だがその実態は、人間が作った“物語”であり、支配を正当化するための装置にすぎない。
国とは“幻想”である
国家には実体がない。
そこに“山”も“川”も“建物”もあるが、それらは国家とは別の存在だ。
- 「ここから先は他国」という“線”は誰が決めた?
- 「国民」とは誰が定義した?
- 「法律」や「税金」は誰のためにある?
これらの問いに共通するのは、すべてが“上から”与えられたルールだということ。
つまり、国家とは「支配を自然なものとして見せるための構造化された幻想」なのだ。
愛国心というマインドコントロール
国家を成立させるためには、“人々に信じ込ませる仕組み”が必要である。
その代表例が「愛国心」である。
- 国歌に感動するよう教育される
- 国旗に敬意を持つよう訓練される
- 「自国のために命をかける」ことが美徳とされる
しかしそれは、国家という仕組みを守るための洗脳であり、 自分自身を国家という虚構に同一化させる行為でもある。
国家という“分断”の仕組み
国家は人類を分ける。
- 日本人 vs 外国人
- 国益 vs 他国の利益
- 安全保障 vs 脅威の排除
これらの二元構造は、争いを前提としたルール設計である。
国という幻想がある限り、常に「敵」や「境界」が生まれる。
それは、「支配する者」が都合よく操作できる分断装置でもある。
なぜ国家は必要だと思わされるのか?
多くの人は、「国がないと混乱する」と考える。
だがその“混乱”とは、国家がなければ困るように教育され、社会設計された結果にすぎない。
- パスポートが必要なのは“国家”があるから
- 法律が違うのは“国家ごとに”統制されているから
- 戦争が起きるのは“国境”があるから
つまり、国家という仕組みが問題の根源でありながら、
人々はそれを前提として思考停止させられている。
国家を“外す”という視点
今すぐ国家をなくせという話ではない。
大切なのは、「国家が絶対ではない」という視点を持つことだ。
- 国に依存せずに生きる仕組みを作る
- 国の言う“正義”を鵜呑みにしない
- 情報の選別を自分で行う
- 法律や政策に盲目的に従わない
これは反体制ではなく、“自分という国家”を取り戻す行為である。
結び:国は物語であり、道具である
「国」という言葉に絶対的な意味はない。
それは時代ごとに都合よく使われ、支配者にとって都合のいい物語であり続けた。
私たちはその物語に囚われるのではなく、
それを“見抜き”、“使いこなす側”へ回らなければならない。
国を信じるな、自分を信じろ。
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