“監視社会”はいつ始まったのか?自由の終焉はすでに始まっている

現代思想

スマホは“持ち歩く監視機”

私たちはスマートフォンを常に携帯している。

GPS、マイク、カメラ、アプリ使用履歴、連絡帳、検索履歴──
これらの情報はすべて、収集され、統合され、分析されている。

あなたの行動、思考、感情すら、“監視”の対象となっている。


SNSは“自発的監視ツール”

Instagram、X(旧Twitter)、TikTok──
我々は「自由に発信している」と思い込んでいるが、実態は「自ら情報を提出する監視対象」にすぎない。

監視者が変わったのではない。
我々自身が、監視を受け入れる側になったのだ。


国家と企業の“共犯構造”

  • 国家は安全保障や犯罪予防を名目に監視を正当化する
  • 企業はマーケティング効率の名のもとに個人情報を吸い上げる

監視は、資本と政治の双方から正当化される構造にすでに組み込まれている。


プライバシーは“贅沢品”になった

もはや「プライバシーを守ること」は簡単ではない。

  • スマホを手放せば社会から断絶される
  • オフラインで生きれば職も情報も失う

自由を守るために、孤立せざるを得ない社会が形成されている。


結論:自由は“安心”と交換された

監視社会は、爆発音や銃声とともに始まったのではない。
静かに、快適に、安心と便利の名のもとに始まった。

本当の終焉は、「誰も終わりに気づかないこと」そのものなのかもしれない。

自由を守りたければ、まず“安心という幻想”を疑うことから始めなければならない。

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